シンガポール、NRIC番号からの脱却が拓く安全性・利便性・競争力の未来

シンガポール政府は近年、NRIC番号を本人確認の主要な認証要素として使用することを避けるよう企業に勧告しており、従来の本人確認プロセスは今まさに大きな変革の波に直面しています。この方針転換は、単なる規制遵守の問題にとどまらず、情報漏えいリスクの軽減や顧客データ保護の高度化、さらにはより快適で信頼性の高い顧客体験の提供へとつながる可能性を秘めています。

今回の記事では、この政策変更の背景と目的、企業に求められる対応策、そして将来的なビジネスチャンスについて詳しく解説します。

今回の共同勧告の背景と概要

2025年8月、シンガポール個人情報保護委員会(PDPC)とサイバーセキュリティ庁(CSA)は、「NRIC番号を認証目的で使用しないように」との共同勧告を発表しました。これは、政府機関・民間企業・団体など幅広い組織に向け、情報セキュリティ上のリスク低減を促すものです。両機関が連名で勧告を出すのは、NRIC(National Registration Identity Card)番号が持つ極めて高い識別力と、その悪用による被害の深刻さが背景にあります。

NRIC番号は、シンガポール国民や永住権保有者を一意に識別するための公式な個人識別番号です。これまで多くのオンラインサービスや会員登録、本人確認プロセスで、パスワードや追加認証手段としてNRIC番号が使用されてきました。しかし近年、フィッシング詐欺や情報漏えい事件が増加し、NRIC番号が第三者の手に渡るケースも散見されるようになっています。一度漏えいしたNRIC番号は変更が困難であるため、不正アクセス、なりすまし、詐欺行為のリスクが長期間にわたり続くという特性を持ちます。

PDPCとCSAは、この状況を踏まえ、以下のような懸念を指摘しました。

  • 静的情報の脆弱性
    NRIC番号は、利用者ごとに固定された「静的情報」であり、パスワードのように定期変更することができません。よって、一度漏えいすれば、その後のあらゆるオンライン取引や本人確認に悪用される恐れがあります。
  • ソーシャルエンジニアリングの容易化
    詐欺グループは、入手したNRIC番号を他の個人情報(氏名、住所、連絡先など)と組み合わせ、銀行口座の開設申請や携帯契約、ローン申請など、より巧妙な不正行為を仕掛けることが可能になります。
  • 利用者心理への影響
    NRIC番号漏えいが広がれば、企業や組織への信頼低下、ブランド価値の毀損、顧客離れといった経営上のリスクにも直結します。

この共同勧告は、単に技術的な注意喚起にとどまらず、「NRIC番号を認証要素として使うこと自体をやめるべきだ」という明確な方針転換を示すものであり、シンガポール国内のセキュリティガバナンスにおける重要な転換点といえます。

また、両機関は勧告の中で、NRIC番号の代替として多要素認証(MFA)の活用を推奨しています。これは、認証の安全性を強化するために、パスワードやPINといった「知識要素」に加え、ワンタイムパスコード、ハードウェアトークン、生体認証など「所持要素」や「生体要素」を組み合わせる方式です。これにより、仮に一部の情報が漏えいしたとしても、単独での不正利用を防止できるとしています。

NRIC番号認証に関するリスクと課題

認証プロセスの脆弱性
NRIC番号はシンガポール国民および永住者の個人識別に用いられる極めて重要な情報であり、多くのオンラインおよびオフラインサービスの本人確認に利用されています。しかし、今回の共同勧告が示すように、NRIC番号単独または限定的な追加情報のみで本人確認を行う仕組みは、攻撃者に悪用されるリスクが高まります。特に、以下の脆弱性が指摘されます。

  • 静的情報依存
    NRIC番号は一度発行されると変更されることがないため、漏えいした場合に恒常的なリスクとなる。
  • 多用途利用
    公共サービスから民間プラットフォームまで幅広く使用されており、単一の漏えいが複数サービスへの不正アクセスを引き起こす可能性がある。
  • 本人認証の単純化
    一部のシステムでは、NRIC番号と氏名、または生年月日程度で本人確認を完了してしまうケースがあり、フィッシングやソーシャルエンジニアリングによる情報取得が容易。

これらの脆弱性は、従来のID番号ベースの認証方式そのものが抱える構造的課題であり、今回の勧告はそれを改めて浮き彫りにしました。

企業・組織への影響
NRIC番号を本人確認の主要手段として依存している企業や団体は、今回の勧告により次のような影響を受ける可能性があります。

  • 運用コストの増加
    追加認証要素(ワンタイムパスワード、生体認証、Singpass連携など)を導入する必要性が高まり、システム改修や教育にコストが発生。
  • 顧客体験(CX)の見直し
    セキュリティ強化によってログインや申込手続きが複雑化し、ユーザー離れのリスクが生じる可能性。
  • 規制遵守への対応
    今後、政府機関や業界団体がより厳格な本人確認基準を策定する可能性があり、それに適合させるための早期対応が求められる。

特に金融機関や医療機関のように高機密性のデータを扱う組織は、従来のNRICベースの認証から多要素認証(MFA)への移行が不可欠となります。

社会的影響と利用者側のリスク
NRIC番号が不正利用されることで、個人にとっては以下のリスクが生じます。

  • なりすまし被害
    不正に開設された口座、契約、ローンなどによる金銭的損失や信用情報の毀損。
  • 個人情報のさらなる漏えい
    NRIC番号を足がかりに、住所、家族情報、医療履歴などの追加情報が収集される可能性。
  • 長期的なセキュリティ不安
    番号変更が不可能なため、一度漏えいすると生涯にわたりリスクが継続する。

このように、今回の勧告は単なるセキュリティ対策の呼びかけではなく、社会全体で認証基盤を再設計すべきという警鐘でもあります。

ビジネスへの影響と対応策

2025年1月にシンガポール政府が発表したNRIC番号を利用した認証手続きに関する新方針は、多くの企業の認証プロセスや顧客管理システムに直接的な影響を与えます。特に、顧客本人確認(KYC)やアカウント作成・ログインにNRIC番号を用いていた事業者にとっては、システム構造や業務フローの抜本的な見直しが必要となります。ここでは、企業が直面する具体的な課題と、それに対応する実践的な施策を整理します。

認証プロセスの見直しと先進的技術の導入
従来のNRIC番号に依存したワンステップ認証は、なりすましや情報漏えいのリスクを内包していました。今回の方針転換に伴い、企業は二要素認証(2FA)、生体認証、ワンタイムパスワード(OTP)など、より安全性の高い技術を導入する必要があります。ただし、導入に際しては、既存システムとの互換性確保、移行期間中のサービス中断回避、及びコスト負担の最適化が課題となります。また、新たな技術導入は新種の脆弱性を生む可能性もあるため、事前のリスク評価とテスト運用が不可欠です。

顧客教育とフィッシング対策
認証方法の変更は、顧客にとって混乱や利用離脱の要因となり得ます。企業は、変更の背景と必要性、具体的な利用方法をわかりやすく周知し、円滑な移行を促す必要があります。特に、認証情報を偽装して入手しようとするフィッシング詐欺は、過渡期に増加する傾向があります。公式チャネルを通じた注意喚起や、認証画面・メールのセキュリティ表示強化など、利用者側で正規サービスを判別できる環境整備が求められます。

法的遵守と継続的なモニタリング体制
今回の方針は、シンガポール個人情報保護法(PDPA)や関連省庁のガイドラインと密接に関連しており、企業は法令遵守を前提としたプロセス設計を行わなければなりません。特に、顧客データの取得・利用・保管・廃棄に至る全ライフサイクルにおいて、監査可能な記録保持とアクセス権限管理が求められます。さらに、新たな認証基盤の運用開始後も、定期的な脆弱性診断や不正アクセス検知のモニタリング体制を維持することが、長期的な安全性確保に不可欠です。

サプライチェーン全体でのセキュリティ強化
近年、攻撃者は企業単体ではなく、その取引先や外部委託先を経由して侵入を試みるケースが増えています。本人確認情報を扱う外部委託先が攻撃対象となれば、その影響は連鎖的に拡大します。したがって、企業は自社内のシステム対策だけでなく、サプライチェーン全体でセキュリティ水準を底上げする必要があります。これは契約条件や監査プロセスの中にセキュリティ要件を組み込み、定期的な検証を実施することで実現可能です。

今後の展望

シンガポールにおけるNRIC番号依存廃止の動きは、企業にとって単なるコンプライアンス対応にとどまらず、新たなビジネス機会と戦略的変革の契機となります。また、これは国内外のデータ保護政策や認証技術の潮流とも密接に関連しており、今後の市場動向や競争環境を左右する重要な要素となります。

新たな商機の創出
NRIC番号依存の廃止は、従来の顧客識別・認証プロセスを抜本的に見直すきっかけとなります。より安全かつユーザーフレンドリーな本人確認手法(例:Singpass、バイオメトリクス、一次性パスコード)を導入することで、顧客満足度の向上や登録プロセスの簡素化、離脱率の低減が期待できます。特にオンラインサービスやモバイルアプリでは、顧客が安心して個人情報を提供できる環境が整えば、サービス利用頻度や顧客生涯価値(LTV)の向上にもつながります。さらに、本人確認(KYC)ソリューションやIDaaS(Identity as a Service)市場の拡大は、ITサービスプロバイダーやセキュリティベンダーにとっての新規事業機会を創出します。

ブランド価値とデジタル信頼の強化
顧客の個人情報保護を優先する企業姿勢は、ブランドイメージを強化します。先行してNRIC番号依存から脱却した企業は、「先進的かつ信頼できる事業者」として市場での優位性を確立できます。加えて、国際的にもGDPRやCCPAなどデータ保護規制が強化される中、シンガポール発の企業が高いプライバシー保護水準を実現していることは、海外展開時の競争力向上に直結します。顧客はサービス選択の際、利便性だけでなく、データの取り扱いにおける透明性や安全性を重視する傾向が強まっています。認証・アクセス管理の高度化、プライバシーポリシーの明確化と積極的な開示、利用者へのセキュリティ啓発活動を通じて「デジタル信頼」を企業価値の中核に据えることができます。

海外市場・越境ECでの安全認証活用
世界各国で求められる本人確認要件は様々あります。NRIC番号に依存しない新たな認証基盤は、こうした国際的要件への柔軟な適応を可能にします。例えば、ASEAN諸国でのモバイル番号認証やパスポート情報連動、ヨーロッパ市場でのGDPR準拠、アメリカでのKYC/AML(アンチマネーロンダリング)要件対応など、地域ごとの規制に対応する統合的な認証基盤は、海外顧客からの信頼獲得や取引の円滑化に寄与します。特に越境ECでは、不正取引防止と顧客利便性の両立が競争優位の鍵となります。

政府・規制当局の今後の動向
今回の措置は単発的な対応ではなく、個人情報保護とデジタル認証の中長期的方向性を示すものです。今後、政府機関(CSA、PDPC、IMDAなど)は、より包括的なデジタル認証フレームワークの整備や、民間企業の遵守義務の明確化を進める可能性が高いです。特にSingpassなど公的デジタルIDの機能拡張や、民間利用ガイドラインのアップデート、遵守状況の監査強化、違反時の罰則拡大などが想定されます。企業はこれらの動向を常時モニタリングし、規制変化を先取りした体制整備を行う必要があります。

まとめ

NRIC番号依存廃止は、企業にとって単なる技術的アップデート以上の意味を持ちます。これは、顧客との信頼関係構築、ブランド価値の強化、そして国際市場での存在感向上につながる大きな契機です。

多要素認証や生体認証の導入、Singpassなどの国民向けデジタルIDとの連携は、セキュリティ強化と業務効率化を両立させるだけでなく、ユーザー体験そのものを再定義する可能性を持っています。特に越境ECやグローバルB2B取引では、各国規制に適合した柔軟な認証基盤の構築が、新たなビジネスモデル創出の鍵となります。さらに、認証プロセスの刷新は、サイバー攻撃への耐性向上や不正利用防止といった防御面の強化だけでなく、新規顧客獲得や既存顧客のロイヤルティ向上といった攻めの経営施策にも直結します。これにより、単なる規制対応に留まらず、競争環境における差別化や収益機会の最大化を目指すことが可能になります。

今後は、技術革新と規制動向の双方を注視しつつ、認証基盤を企業戦略の中核に据えることが、持続的成長と市場優位性確立のための不可欠な要素となります。変化を恐れず、先行して取り組む企業こそが、シンガポール市場のみならず国際的な舞台で主導権を握ることができます。

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MAYプランニングでは、認証プロセスの現状診断および脆弱性評価やサプライチェーン全体におけるセキュリティ要件策定に関するアドバイスを行っています。また、生体認証・ワンタイムパスコード・Singpass連携等の技術選定や実装支援、国際市場向けの統合認証基盤設計および各国規制対応支援などについてのサポートも提供しております。

参考:
1)Joint Advisory against Using NRIC Numbers for Authentication by the Personal Data Protection Commission (PDPC) and Cyber Security Agency of Singapore (CSA). (n.d.). Personal Data Protection Commission Singapore. https://www.pdpc.gov.sg/help-and-resources/2025/06/joint-advisory-against-using-nric-numbers-for-authentication-by-the-personal-data-protection-commission-pdpc-and-cyber-security-agency-of-singapore-csa
2)Singapore: PDPC and CSA Issue Joint Advisory against Using NRIC Numbers for Authentication. (2025, June 30). Baker McKenzie. https://insightplus.bakermckenzie.com/bm/data-technology/singapore-pdpc-and-csa-issue-joint-advisory-against-using-nric-numbers-for-authentication_1
3)Shawn ting. (2025, June 11). Singapore Issues Advisory to Stop Use of NRIC Numbers for Authentication. Bird & Bird. https://www.twobirds.com/en/insights/2025/singapore/singapore-issues-advisory-to-stop-use-of-nric-numbers-for-authentication
4)Kevin kwek, joanie ko, amanda tai. (2025, July 1). Authentication versus Identification and the Use of the Singapore NRIC Number. Kennedys. https://kennedyslaw.com/en/thought-leadership/article/2025/authentication-versus-identification-and-the-use-of-the-singapore-nric-number/
5)Charmian aw, ciara o’leary. (2025, July 29). Singapore Censures Use of National Identification Numbers for Authentication. Hogan Lovells. https://www.hoganlovells.com/en/publications/singapore-censures-use-of-national-identification-numbers-for-authentication
6)National Registration Identity Card. (n.d.). Wikipedia. https://en.wikipedia.org/wiki/National_Registration_Identity_Card
7)Singapore Issues Advisory Restricting Use of National Identification Numbers. (2025, July 3). Reed Smith. https://www.reedsmith.com/en/perspectives/2025/07/singapore-issues-advisory-restricting-national-identification-numbers