シンガポールと香港のAI政策から読み解く企業の進出戦略

アジア太平洋地域のデジタル競争が激化する中、香港とシンガポールはともにAI（人工知能）を発展戦略の中核として選択し、スマートシティや産業応用、人材育成など幅広く取り組みを進めています。両都市は地理的には限られた規模でありながら、金融インフラや教育基盤、行政能力などに優れており、高度なAIエコシステムの構築を目指しています。
今回の記事では、両都市の戦略構造・制度設計・人材育成・投資規模・政策枠組み・人材戦略という多角的視点から詳細に整理し、さらに日本企業の進出・協業機会を具体的に分析します。

シンガポールのAI戦略

Smart Nation構想とAI政策の全体像
シンガポールにおけるAI戦略は、国家全体のデジタル化を目指す「Smart Nation」構想の一環として展開されています。2014年に始動したSmart Nationは、行政手続きのデジタル化、キャッシュレス社会の推進、スマート交通の導入などを通じて、国民生活の質の向上と経済競争力の強化を目的としてきました。

この10年間では行政サービスの99%以上がオンライン化され、中小企業の95%以上が何らかのデジタル技術を導入するなど、デジタル成熟度は世界でも高い水準にあります。さらに、2024年では「Smart Nation 2.0」へと発展し、より包括的で国際的な視点からAIを中心とした先端技術の社会実装が加速しています。

国家AI戦略とNAIS 2.0
シンガポール政府は2019年、「国家AI戦略（National AI Strategy）」を策定し、AIの社会実装に向けた官民連携体制を整備しました。重点分野としては、都市インフラ管理、教育、ヘルスケア、物流、セキュリティなどが挙げられ、それぞれの領域で実証事業や導入事例が拡大しています。

2023年に発表された「国家AI戦略2.0（NAIS 2.0）」では、「AI for the Public Good, for Singapore and the World（公益のためのAI、シンガポールと世界へと）」というビジョンのもと、AIの適用範囲を拡大し、より包括的なエコシステムの構築が目指されています。この戦略では、「Excellence（卓越性）」と「Empowerment（能力開花）」の2つの柱を中心に据え、AIを研究・産業・公共サービスへと統合的に展開する方針が示されています。

AI Singapore（AISG）の役割と取り組み
NAIS 2.0を実行する中核機関として、AI Singapore（AISG）は重要な役割を果たしています。2017年に設立されたAISGは、研究開発、人材育成、産業応用の三位一体の推進を行っており、特に企業との協働によるPoC支援「100Eプロジェクト」や、AI人材育成プログラム「AI Apprenticeship Programme（AIAP）」などで成果を挙げています。

さらに、フェアネスや説明可能性を重視したAI開発を促進する研究も行われており、大学・ポリテクニックと連携した人材パイプラインの強化、中小企業向けの導入支援などを通じて、裾野の広いAIエコシステムが構築されつつあります。

信頼性・透明性を重視するAIガバナンス
AIの急速な普及に対応するため、シンガポールはAIガバナンスの国際モデル構築にも注力しています。情報通信メディア開発庁（IMDA）が中心となって立ち上げた「AI Verify Foundation」は、オープンソースの検証ツール「AI Verify」を提供し、AIモデルの透明性・説明可能性・公平性を確保する仕組みを整備しています。この取り組みは、欧米諸国との協力の下、グローバルなAI倫理基準の策定にも寄与しており、国内外の企業が信頼性の高いAIを開発・実装できる環境が整備されつつあります。

インフラ整備と行政での実装
デジタルインフラ面でも、5G通信、国家IDシステム（Singpass）、リアルタイムで都市情報を可視化する「Virtual Singapore」などが高度に統合され、物理空間とデジタル空間のリアルタイムな連携が実現されています。これらの基盤は、AIの高度化と広範な社会実装を支える要となっています。

また、GovTech（政府技術庁）を中心に、AIを活用した行政サービスの高度化も進んでおり、交通管理、健康診断、社会福祉、公共住宅運営など、具体的かつ生活に密着した領域でAIの導入が活発に行われています。

投資規模と人材育成
政府機関であるAISGには5億シンガポールドル（約560億円）以上の研究資金が投入されており、150以上の研究チームと900以上のスタートアップがエコシステムに参加しています。

さらに、AI分野の専門人材は2024年現在で約20万人に達しており、これは2018年比で40%以上の成長を示しています。大学や職業教育機関との連携を通じて、理論・実務の両面に対応可能な人材が継続的に育成されています。

香港のAI戦略

香港は、国際金融の中心地として長年にわたりその地位を築いてきましたが、近年はその実績を土台に、AIを含む革新的テクノロジーの発展に向けた大胆な転換を進めています。特に2020年代に入って以降、香港政府はAIの研究開発、産業応用、及びスタートアップ・エコシステムの強化を柱とする戦略を次々と打ち出しており、中国と国際市場を結ぶ「東西のゲートウェイ」としての独自の立場を活かした動きが注目されています。

政府主導のAI推進戦略
香港のAI戦略は、2015年「創新科技局（Innovation and Technology Bureau、現InnoHK）」の設立以降、段階的に強化されてきました。特に、2017年に発表された「スマートシティ・ブループリント（Smart City Blueprint）」は、都市の各セクターでのAI導入を促す重要な政策文書となっています。さらに、2020年にはその改訂版「Smart City Blueprint 2.0」が公表され、AIの応用分野を拡大しつつ、データ主導型政策の実装と倫理的ガバナンスの枠組みが導入されました。

また、AIに関する基盤研究の振興を目的として、香港政府は「InnoHKリサーチクラスター（InnoHK Clusters）」を香港科学園内に設置し、海外および中国の大学・研究機関との共同研究を促進しています。これにより、応用AI（Applied AI）とヘルステックAI（Health@InnoHK）の二つの重点分野で、世界トップレベルの研究活動が行われています。

研究開発基盤と大学の役割
香港には、AI研究を牽引するトップレベルの大学が集中しており、特に香港中文大学（CUHK）、香港科技大学（HKUST）、香港大学（HKU）の三校が重要な役割を担っています。例えば、CUHKはコンピュータビジョン領域で国際的に高く評価されており、Alibaba DAMO AcademyやSenseTimeとの連携研究も実施しています。HKUSTはロボティクスと強化学習分野において世界的なプレゼンスを有し、HKUは医療AIやAI倫理に関する学際的研究を進めています。

政府はこれら大学の研究成果を産業界と結びつけるため、「大学研究資金制度（Research Matching Grant Scheme）」や「テーマ型研究基金（Theme-based Research Scheme）」などのファンディング枠を整備しており、AI関連プロジェクトに重点配分を行っています。こうした制度設計は、研究成果の社会実装を加速させる役割を果たしています。

AI人材の育成と国際人材政策
香港政府は、地元のAI人材の育成とともに、海外からの高度人材の招致にも積極的です。中でも、「再産業化スキーム（Re-industrialisation Scheme）」と連動した形で、大学と職業訓練機関によるAIカリキュラムの拡充が進められており、高度なプログラム設計や機械学習の実装能力を備えた技術者の育成を目指しています。

また、香港政府は、外国人研究者や技術者を対象に「優秀人材入境スキーム（Quality Migrant Admission Scheme）」を運用しており、AI・ビッグデータ分野が重点産業として位置付けられています。加えて、2023年に開始された「Top Talent Pass Scheme」は、世界トップ大学卒業者を対象とした柔軟な就労・居住制度であり、国際的なAI人材の集積をさらに後押ししています。

産業との連携とスタートアップ支援
AIの実装を現場で進めるため、香港政府は産業界との橋渡し機能を担う機関を複数整備しています。その中核となっているのが「香港サイエンスパーク（HKSTP）」と「サイバーポート（Cyberport）」です。前者は主にディープテック系スタートアップの育成支援を担い、後者はフィンテックやスマートシティ向けのソフトウェア開発に強みを持っています。

AI領域に特化した支援策としては、「AIラボ設立支援スキーム」や「公営データセットの提供プログラム」などが用意されており、スタートアップがアルゴリズムの訓練や試験運用を行うための環境整備が進んでいます。また、2022年以降は、生成AIやマルチモーダルAIといった新興領域を対象にしたアクセラレータープログラムも立ち上がっており、イノベーションのスピード感を保った支援体制が構築されています。

大湾区（GBA）との連携と越境展開
香港のAI戦略において特筆すべきは、「粤港澳大湾区（Guangdong-Hong Kong-Macao Greater Bay Area）」との連携強化です。大湾区構想は、広東省の先進的製造業基盤、深圳のデジタル産業、マカオの観光・エンタメ産業、そして香港の金融・法制度基盤を統合的に活用するものであり、AIに関してもそのシナジー効果が期待されています。

特に、深圳との間では「深港イノベーションゾーン（Shenzhen-Hong Kong Innovation and Technology Co-operation Zone）」が開発中であり、データ共有やクロスボーダー研究開発、法的枠組みの整備を通じて、AI企業のテストベッドとしての機能が強化されています。さらに、香港の大学は深圳市との共同キャンパス設立や研究所設立を進めており、香港と中国の間での人材・技術・資本の循環が活発化しています。

AIガバナンスと倫理的枠組み
AIの社会実装を進める中で、倫理的ガバナンスの重要性も香港では強く認識されています。2021年に発表された「Ethical AI Framework」は、AI設計における説明責任、公平性、透明性を指針として掲げ、政府部門や企業に対して倫理的配慮を求める内容となっています。

また、金融セクターでは、香港金融管理局（HKMA）がAIの運用に関するガイドラインを発表しており、信頼性・説明可能性・監査性の高いAI導入を義務付ける方向で制度設計が進んでいます。このような動きは、国際的な投資家や規制当局との整合性を重視する香港ならではの戦略と言えます。

香港のAI戦略は、単なる都市内の産業振興策にとどまらず、国際都市としての多元的な特性、そして中国との越境的接続性を最大限に活かした「ハイブリッド型」の成長モデルを描いている点に特徴があります。政策支援、研究基盤、人材誘致、産業連携、そして倫理的ガバナンスの各要素がバランス良く配置されています。

両都市の投資規模・政策枠組み・人材戦略の差異

シンガポールと香港は、アジアにおけるAI戦略の最前線に立つ都市国家でありながら、その戦略的アプローチには顕著な差異が見られます。

投資規模と資金配分
シンガポールは、国家予算の中でAIおよびデジタル技術関連の投資を一貫して増加させており、国家AI戦略2.0の下、今後5年間で10億シンガポールドル以上の資金を投じる計画を打ち出しています。これは政府主導のAI開発機構「AI Singapore」を中心に研究開発、実証実験、スタートアップ支援に配分され、公共・民間双方のエコシステム形成を意図したものです。また、AI Verify Foundationの創設に見られるように、国際的なAIガバナンスの中心地としての地位を目指す姿勢も投資配分に反映されています。

一方、香港においては、2024/25年度の政府予算においてAIおよびスマートシティ関連の取り組みに50億香港ドル超が充てられており、これまでより明確に重点投資の方向性が打ち出されています。特に、AI資助計劃（AI Subsidy Scheme）やデータセンター、先端研究機関への投資を通じて、産業構造の高度化と外資誘致の加速を狙っています。香港の投資アプローチは、大学・研究機関と産業界の橋渡しを重視する点で、ややボトムアップ型の性格を帯びており、シンガポールのトップダウン型政策とは対照的です。

政策枠組みと制度設計
シンガポールの政策は、デジタル政府庁（GovTech）および情報通信メディア開発庁（IMDA）を中心とする制度体系の下で、非常に整理された政策設計が特徴です。国家AI戦略2.0では、重点6分野（ヘルスケア、都市運営、安全保障、教育、金融、サプライチェーン）を定め、それぞれにおいてAI導入のロードマップとKPIが設定されています。また、AIモデルの信頼性を担保する「AI Verify」制度に象徴されるように、国際的な技術・倫理基準との整合性を重視した設計がなされていることも注目されます。

一方の香港では、近年になってようやくAIを国家戦略レベルで扱う政策整備が本格化し始めました。2025年の予算案およびイノベーション・テクノロジー・産業局（ITIB）の施策を通じ、AIを経済活性化と行政効率向上の柱に据える方向性が打ち出されています。ただし、シンガポールに比べ制度的整合性やKPI設計の明確性ではやや遅れが見られる側面もあり、今後の改善余地があると言えます。とはいえ、香港は「一国二制度」の下で中国との技術協力や大湾区経済圏との連携を強みとして活かす可能性が高く、制度的柔軟性という利点も併せ持っています。

人材育成と国際競争力
AI分野における人材育成戦略も、両都市で異なるアプローチを見せています。シンガポールでは、NTUやNUSといった国内有力大学とAI Singaporeが連携し、修士・博士課程における専門教育、企業向けのリスキリング、海外高度人材の招聘など、多層的な人材開発戦略が展開されています。特にTechSkills Accelerator（TeSA）やDigital Leaders Programmeなど、産業界と直結した実務型教育が強みとなっています。

香港は、香港大学や香港中文大学などのアカデミアの強みを活かしながらも、より実務的な人材育成の強化を進めている段階にあります。例えば、政府主導の「Reindustrialisation and Technology Training Programme」などにより、地元中小企業と連携した研修制度を拡充している点が特徴です。さらに、国際人材の誘致については、優遇ビザ制度や税制措置によって積極的に推進されていますが、競争力の面ではシンガポールが依然として一歩先を行っている印象も否めません。

補完的関係と今後の可能性
シンガポールは制度設計と国際ガバナンス、実証的政策の迅速な展開を強みとする一方、香港は中国との接続性や柔軟な産業連携を通じた応用展開力に優位性があります。両者は互いに競合するというよりも、異なるモデルとして補完的な存在であり、AI分野における日本企業の進出戦略においては、両都市の特性を理解した上での組み合わせ的なアプローチが鍵となります。

企業にとってのビジネス展望

シンガポール・香港のAI政策が示す「相補的機会」
シンガポールと香港がそれぞれ異なる強みを活かしてAI産業を推進している現状は、企業にとって単なる「進出候補地の選択」を超えた、多面的な事業展開の機会を提供しています。
たとえば、シンガポールの制度的整備と高度な研究開発支援体制を活用して、先端技術のPoC（概念実証）を実施しつつ、香港のクロスボーダー市場アクセスと中国との接続性を活かして、スケーラブルな商業化を図るといった戦略も現実味を帯びてきています。

AI関連分野における両都市の発展は特に以下の観点が企業にとって注目すべきです。

ビジネスモデル実証と市場導入の二面展開
シンガポールでは、政府主導のサンドボックス制度や、個人データ保護法（PDPA）に基づいた信頼性ある環境が整っており、医療、金融、スマート製造など幅広い分野でAIモデルのテスト運用が可能です。企業にとっては、リスクを抑えながら新規アルゴリズムやシステムの試験導入ができる場としての魅力があります。一方、香港では、粤港澳大湾区との接続性が高まりつつあり、中国市場への導入・展開のゲートウェイとして注目されています。AIを活用した物流最適化、スマート建築、越境金融技術など、現地実装を前提としたスケーラブルな商用展開に向いた環境が整備されつつあります。この「実証はシンガポール、展開は香港」といった二都市活用型のビジネス戦略は、特にスタートアップや中堅システム開発企業にとって戦略的価値が高いと言えます。

現地企業との連携・共創による競争優位の確保
シンガポールと香港の両都市では、現地AIベンチャーとの連携による共創事例が増加しています。特に政府系アクセラレーションプログラム（例：SGInnovate、Cyberport Incubation Programme）を通じて、企業と現地スタートアップが共同開発契約を結ぶケースも増えています。また、大学・研究機関との連携（例：NUS、HKUなど）を通じたAI人材獲得・研修プログラムも、日本国内の技術者不足を補完する手段として有望視されています。企業が現地の「イノベーション・エコシステム」に組み込まれることで、中長期的な競争優位の確保が見込まれます。

日本的価値と現地ニーズの橋渡し：倫理性・品質志向
日本企業が強みとする「高品質・高信頼性」に加え、近年では「AI倫理・透明性」に関する対応姿勢も国際的に注目されています。シンガポールにおけるAI倫理ガイドラインとの整合性、香港での個人データ取り扱いにおける慎重な対応など、日本的な価値観と整合する分野での信頼獲得は、他国企業との差別化要素となり得ます。特に、高齢化や医療支援、教育支援といった社会課題解決型のAIアプリケーションにおいて、日本企業が培ってきたノウハウは現地での社会的受容性と一致しやすく、持続可能なビジネスモデルの構築に寄与する可能性があります。

まとめ

シンガポールと香港は、AIを発展戦略の中核に据えることで、持続的な経済成長と国際競争力の確保を目指しています。シンガポールは「Smart Nation」構想のもと、行政、交通、教育、医療など多様な分野でAIを実装し、制度的・倫理的なガバナンス基盤まで整備。それに対して香港は、金融都市としての強みを活かしつつ、中国と国際市場を繋ぐ「東西のゲートウェイ」として、研究開発と産業応用の両面でAI政策を展開しています。両都市はそれぞれ異なる強みを持ちながらも、共通して人材育成と国際連携を重視し、AIエコシステムの構築を加速させています。企業がアジアでAIを活用したビジネス展開を図る際、両都市の強みを理解することは、現地での実証実験、スタートアップとの協業、新規事業の足がかりを見出すうえで有効的です。

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